2015年3月28日土曜日

内田百閒「花火」を読む 2日目

「花火」は、こんな書き出しで始まる。

「私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。」(P.1)

広く知られている通り、内田百閒は岡山県の生まれである。
1910年、21歳で東京帝国大学に入学するまで、青春の多感な時期を岡山で過ごした。
故郷の岡山を強く愛し、折に触れては幼少期の思い出を作品に残している。

しかし奇妙なことに、というか強い愛着ゆえに、決して故郷の土を踏もうとはしなかったという。
 「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、昭和17年の恩師の葬儀(駅からタクシーで乗りつけ帰路はそのままとんぼ 返りした)以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。死後、遺志により分骨されて先祖代々の墓に納められ、やっと帰郷が叶うこととなった。 (Wikipediaより引用)
「牛窓の港」とは、岡山県の南岸、播磨灘に接する牛窓港のことであろう。
彼の生まれ故郷である古京町からは約30kmの距離である。
現在は風光明媚な避暑地として、「日本のエーゲ海」などと呼ばれて親しまれているそうだが、100年以上前の牛窓港はどのような場所であっただろうか。

にしても、牛窓という地名は引っかかる。

牛というのは、日本ではものの遅い喩えによく使われる。
牛歩戦術、であるとか、商いは牛の涎、といった鈍重なイメージを想起させる。
また、半人半牛のミノタウロス牛頭馬頭に代表されるように、化物や妖怪として世界中で描かれている。ヒンドゥー教では崇拝の対象として聖化されているし、日本のことわざでも「牛にひかれて善光寺参り」といったように神、信仰につながる表現がある。

窓というのは内と外を分け隔てる壁に作られるもので、一方からもう一方を覗き込む装置である。
舞台で言うプロセニアムアーチ、現実から異界が、異界から現実が垣間見える象徴でもある。(ここで重要なのは「扉」との違いだ。あくまで垣間見えることが「窓」の特性であり、出入りすることはできない。)

「牛」、「窓」、という二つの文字が、ごく普通の一文に不気味さを加えている。


調べてみると、牛窓は日本の神話由来の知名だそうだ。
皇后備後の泊まりに着かせたまう時、長十丈ばかりなる牛、沖のほうより出来て、乗らせた まいつる御船を損ぜんとす、その時この老翁、かの牛の二つの角を取りて、海中へ投げ入れつ、しかるにこの牛、海中にて島となりて今にあり。よってこの所をば「牛まど」と言いて、文字には「牛(転)まろばし」と書きたり(神功皇后縁起絵巻)
牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后三韓征伐の途中、同地にて塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われて弓で射殺し、塵輪鬼は頭、胴、尾に分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島となった。皇后の新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かり、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したという。牛窓の地名は、この伝説の地を牛転(うしまろび)と呼んだものが訛ったことが由来とされる(Wikipedia「牛鬼」より引用)

これはいよいよ怪しくなってきた。

ロシアの偉大なる劇作家、アントン・チェーホフの格言に「もし第1章で、壁にライフルが掛けてあると述べたなら、第2章か第3章で、それは必ず発砲 されなければならない。もし、それが発砲されることがないなら、そのライフルはそこに掛けられるべきではない」(S・シチューキン『回顧録』)というものがあるが、冒頭で「牛窓」という言葉が用いられた以上、たった6ページの短い作品とはいえ油断できない。
牛窓とは、何かの暗示なのだろうか?

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